在位期間: 紀元前312年〜281年
製造年: 紀元前305/304年〜281年
製造地:SUSA
重量: 17,04グラム(スラブ合わせて57,6グラム)
直径: 26ミリ
表面: セレウコス (ヘルメット、豹の皮、雄牛の耳、角)
裏面: BASIΛEoΣ SEΛEYKOY 「勝利の女神ニケ」、「TAY」、「GAU」
NGC鑑定番号: 3988131-001
NGC鑑定結果:AU 「STAR 」5/5、5/5 「FINE STYLE」!
専門書:
SC 173.4
ESM 426
特記: セレウコス1世(古代ギリシア語: Σέλευκος Α'、紀元前358年 - 紀元前281年)は、セレウコス朝の創始者(在位:紀元前312年 - 紀元前281年)。ニカトール(古代ギリシア語: Νικάτωρ、勝利王)と呼ばれた。
マケドニア王国の貴族アンティオコスの息子で、アレクサンドロス大王の家臣として仕え、大王の東方遠征にも参加して活躍する。しかし他の大王の後継者(ディアドコイ)たちに比べれば当時は影が薄い存在で、アレクサンドロスの生涯に関する史料として最も重要視されるアッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』でも、セレウコスが最初に登場するのは、紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いの場面である。当時、彼は重騎兵(ヘタイロイ)の一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官であった。
紀元前324年にスーサで行なわれたギリシア人と東方人の集団結婚式では、アレクサンドロスに敗れたソグディアナの実力者スピタメネスの娘アパメーを娶る。このとき王に強いられて東方人の妻を迎えた者たちのほとんどは、やがて相手と離別したが、セレウコスだけは生涯アパメーと連れ添った。ソグディアナ人のアパメーを妻としたことは、後に彼の東方支配に大いに利したとされる。
アッリアノスによれば、アレクサンドロスがバビロンに帰還してから、彼の死の予兆となる不吉な事件が次々に起こったというが、そのなかのひとつにセレウコスが登場する。それによればアレクサンドロスが船団を率いてバビロン南方の沼沢地を進んでいたときに、彼のかぶっていた帽子とディアデマが風にさらわれて沼の芦に引っかかった。
同時代人アリストブロスの記録では、一人の水夫がこのディアデマを王のもとに届けたとされるが、別伝によるとディアデマを王に手渡したのはセレウコスであり、彼が王の権威の象徴を手にしたことは、のちに彼が王位を獲得する前兆であったという。
その後、アレクサンドロスの死の直前に、王の治癒祈願のためセラピス神殿に参篭した者たちの中にも、セレウコスの名が見える。
アレクサンドロス3世の存命中にセレウコスの行動として記録されているものはこの程度である。
鋳造地、古代町「SUSA」について
スーサ、またはスサ(英語: Susa -発音:[ˈsuːsə]、ペルシア語: شوش -音写:Shush -発音:[ʃuʃ]、ギリシア語: Σοῦσα -発音:[ˈsuːsa]、シリア語: ܫܘܫ -音写:Shush、古ペルシア語: Çūšā 、聖書ヘブライ語: שׁוּשָׁן -音写:Shushān)は、現在のイランの西南部に位置し、エラム王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代には、王都として栄えた都市。現フーゼスターン州シューシュ.
スーサの歴史は古く、アクロポリスからは紀元前4000年にまで遡る神殿跡が発掘されている。放射性炭素年代測定によると、早ければ紀元前4395年にまでさかのぼる。紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国の首都であった。
紀元前647年、アッシリアのアッシュールバニパルによって破壊された(スーサの戦い)。
紀元前540年、アケメネス朝ペルシャの王キュロス2世に占領されてエラムは滅んだが、王宮が置かれて王の道の起点として再び栄えた。
ダレイオスが紀元前331年のガウガメラの戦いでマケドニア王国のアレクサンドロス3世に敗れてアケメネス朝が滅んだ後、紀元前324年、アレクサンドロスは帝国内の安定を図ろうと家臣と征服部族とのスーサの合同結婚式(英語版)を行ったとの記録がある。
直後の紀元前323年にアレクサンドロスは死亡し、アレクサンドロスの部下であったセレウコス1世が立ち、スーサはセレウコス朝の支配下に入った。
紀元前250年頃にセレウコス朝の総督 (サトラップ)だったアンドラゴラスがセレウコス朝からの独立を宣言したものの、直後の紀元前247年頃にパルニ氏族によって放逐されて、以降はパルティアと呼ばれ、セレウコス朝とは敵対する時代となる。遺跡から多くのパルティア時代の陶器等の遺物が発見されていることからパルティア時代に至ってもスーサは都市としての繁栄を続けたと考えられる。
その後116年頃のローマ皇帝トラヤヌスの侵攻によりスーサも占領された。
サーサーン朝のシャープール2世時代(309年 - 379年)に再建された。
638年はムスリムの侵攻を受け、モスクなどの遺構は残ったが、1218年モンゴルが侵略した。その後、住民のほとんどは北部のデズフールなどに移動し、現在は小さな集落のみとなっている。5世紀から13世紀の間はかなりの東方教会のキリスト教徒がいたようである。