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(241)古代ローマ アウレウス金貨 「ユリア.ドムナ」NGC MS STAR (紀元後193年〜217年) SOLD OUT
【商品詳細】
皇帝の妃としての在位期間:紀元後193年〜217年!
鋳造時期: 紀元前後200年〜207年!

鋳造地: ローマ (またはLaodicea)
重量: 7,17グラム (スラブ合わせて50,9グラム)
直径: 20ミリ
表面: IVLIA AVGVSTA
裏面: LAETITIA (ラテン語で「喜び」や「歓喜」を意味する)、左手に舵、右手に花冠。
NGC鑑定番号: 4284639-002
NGC鑑定結果: 「MS 5/5,4/5 STAR」!!
過去のオークション歴: (CNG) 2017年1月 Ex.Triton XX Lot 793 (落札額「18000ドル」、落札手数料ありで(約)22000ドル(為替と関税合わせて約270万)。
参考専門書: RIC IV 561; Calicó 2619; Biaggi 1143

特記その1: ユリア ドムナの生まれ故郷であるシリア国のLaodicea (現代ではシリア第一の港湾都市 Latakia市)の為に作られたと思われます。

特記その2: このタイプで「最高鑑定」であると思われます。
既存の鑑定済み「GEM 」では、本タイプと違うCalicó 2641 (3個) (NGC 3763317-005、NGC 2079062-006…)
やCalicó 2615 (2個) (NGC 6057115-013…)ばっかりです。


ユリア・ドムナ(ラテン語: Julia Domna, 170年 - 217年)は、セウェルス朝の開祖であるセプティミウス・セウェルスの妻。カラカラ、プブリウス・セプティミウス・ゲタの母親でもある。セウェルス死後の皇帝家の陰の実力者として君臨した。

ユリアの家系はシリア古来のもので、エメサ(現在のホムス)にあった太陽神エル・ガバル(ヘリオガバルス)の神職を代々預かっており、エメサの町も支配する祭祀王の家系だった。父親はエル・ガバルの神官ユリウス・バッシアヌスで、姉にはユリア・マエサ、マエサの孫たちで大甥には後にローマ皇帝となるヘリオガバルスとアレクサンデル・セウェルス(2人は従兄弟同士)がいた。

180年代後半にセウェルスと結婚した。ガリア・ルグドゥネンシス属州総督だったセウェルスはユリア個人の人となりも彼女の家系がどのようなものかも知らず、ただ占星術で彼女が王になる人物と結婚するということを聞いてこの結婚を決めたという。しかし結果としては恵まれた結婚となり、188年にはカラカラを、189年にはゲタを生む。

皇帝の妃として 編集
193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定された。しかし彼にはまだペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌスなど敵対する者がおり、セウェルスはこの敵と戦わなくてはならなかった。ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とは違い、彼女はこの一連の軍事行動を夫とともにした。こうして皇帝である夫の陰での実力者として彼女は絶対的な政治力を持つようになった。

皇帝就任後もセウェルスは外征が多く、ローマで影響力を振るう彼女の存在を元老院には歓迎しなかった。彼女はさしたる理由もなく不義・国家反逆罪の咎で告発され、皇妃として彼女はこのような政敵と対峙せねばならなかった。しかしセウェルスは妻に対する態度を少しも変えることはなかった。

陰の実力者として 編集
211年に夫セウェルスが没すると、ユリアは共同皇帝となった2人の息子・カラカラとゲタの調停者としての役割を担うようになる。セウェルスは2人の息子が協力して帝国の統治を担うことを願っていたが、カラカラとゲタは仲が非常に悪く、絶えず何かしら対立していた。そして同年12月にカラカラはゲタを殺害する。

その後もユリアは息子カラカラを支え、内政を取り仕切っていたとされるが、217年にパルティア遠征にカラカラとともに出征する。しかし、この遠征中にカラカラは近衛兵士に暗殺された。

後を継いで皇帝に即位した近衛隊長官マクリヌスは当初旧セウェルス朝関係者にも寛大であったが、やがてユリア・ドムナを反逆の容疑でアンティオキアに幽閉する。

この頃すでに重い病に冒されていたユリア・ドムナは絶食して死を選んだとされる。






Julia Domna. Augusta, AD 193-217. AV Aureus (20mm, 7.17g, 12h). Rome mint.

Struck under Septimius Severus, circa AD 200-207. IVLIA AVGVSTA, draped bust right / L AETI TIA, Laetitia, draped, standing left, holding wreath downward in right hand and in left, holding rudder set on ground to right.

Ref: RIC IV 561; Calicó 2619 (same dies as illustration); BMCRE p. 162, note 45 (Septimius and Caracalla); Biaggi 1143 (same dies as illustration).

Julia Domna was of Syrian-Arab ancestry, as the daughter of the hereditary high priest of Elagabal at Emesa, a wealthy caravan city in the Syrian desert. Beautiful, cultured and highly educated, she was made even more of a "prize" by a horoscope that proclaimed she would marry a king. Septimius Severus probably encountered her family while serving as a general in Syria in the AD 180s; when he learned of the horoscope, he immediately wrote to her father and secured her hand in marriage. Upon Severus' ascension as Roman Emperor in AD 193, Julia was named Augusta and became his closest advisor and confidant. Her love of art, learning and philosophy manifested in a cultural Renaissance in Rome.



JULIA DOMNA
(+217) Julia Domna
Augusta (193-217)
Julia Domna est originaire d'Émèse en Syrie et fille du grand prêtre du Baal d'Émèse. Septime Sévère l'épouse vers 180 et elle lui donne deux fils, Caracalla, né à Lyon en 188, et Géta, né en 189. Elle est proclamée Augusta en 194, accompagne l'empereur dans ses déplacements et reçoit donc le titre de "mère des camps". Pendant l'expédition de Bretagne, elle est régente à Rome. Après la mort de Septime Sévère, elle reçoit de nouveaux honneurs, Mère du Sénat et Mère de la Patrie, et les titres de Pia Felix (pieuse et heureuse). En 212, Géta est assassiné par son frère dans les bras de Domna. Pendant les expéditions germaniques et parthiques de Caracalla, Domna reste à Rome. Après la mort de son fils, elle est exilée par Macrin et meurt peu après.

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